Р という文字は、ラテン文字の P によく似ている。だが読み方は違う。この字はキリル文字で、日本語では「エル」に近い音、ロシア語話者が巻き舌で発音する r を表す。
見た目が近いのに音が違う。この気持ち悪さには理由がある。キリル文字はラテン文字から派生したものではなく、ギリシア文字を土台にして、9世紀の終わりに別の場所で作られた文字だからだ。似ている字があるのは、両方がギリシア文字という同じ親を持つためで、互いに写し合った結果ではない。
誰が作ったのか
名前はキュリロス(Cyril)にちなむ。だが、キュリロス自身が作った文字ではない。
キュリロスと兄のメトディオスが863年ごろに作ったのはグラゴル文字という別の文字体系で、これはキリル文字とは字形がまったく違う。885年にメトディオスが死ぬと、弟子たちは大モラヴィアから追放され、ブルガリアに逃れた。キリル文字が生まれたのは、この亡命先である。
作ったのは、クリメント(Clement of Ohrid)やナウム(Naum)、コンスタンティン(Constantine of Preslav)といった弟子の世代だった。場所はブルガリアのプレスラフに置かれた学問の拠点で、皇帝シメオン1世(Simeon I)が893年に都をプレスラフへ移したのに伴って、ここが当時のスラヴ語圏で最大の文献生産地になる。
ただし、キリル文字が完成した年を1つに定めることはできない。893年のプレスラフ教会会議でスラヴ語の典礼が採択され、そのときに文字も整理されたとする説があるが、確定した定説とまでは言えない。この記事では「9世紀の終わり、ブルガリアで」という以上には踏み込まない。
なぜグラゴル文字ではなくキリル文字が残ったのか
先にあったグラゴル文字を捨てて、なぜ新しい文字を作ったのか。字形を見ると理由が想像しやすい。
グラゴル文字は、丸と輪と交差する線でできた、どの既存文字にも似ていない体系だった。対してキリル文字は、当時のギリシア語写本で使われていた大文字体(アンシャル体)をほぼそのまま流用し、ギリシア語に無いスラヴ語の音のための字だけをグラゴル文字から引き継いでいる。
これは、書き手にとっての切り替え費用の差になる。ギリシア語の読み書きができる聖職者にとって、キリル文字はほとんど新しく覚えることがない。ビザンツ帝国の文化圏と結びついた教会組織が広がっていく過程で、覚えやすいほうが勝った。
グラゴル文字が消えたのではなく、キリル文字が乗り換え先として都合が良かった、という順序になる。
キエフを経てモスクワへ
キリル文字は、正教とセットで北へ広がった。988年ごろのキエフ・ルーシのキリスト教受容がその入口になり、教会の言語である教会スラヴ語とともに、東スラヴ語圏に定着する。
以後、モスクワ大公国、そして1547年からのロシア・ツァーリ国へと引き継がれるが、この間の書記の字形は、教会の写本体である半ウンシャル体(ポルースタフ)のままだった。手で書き写すことを前提にした、装飾の多い書体である。
1708年、上から形を変えられる
キリル文字の見た目が今の形になるのは、18世紀の初めである。
ピョートル1世は、行政文書と技術書を印刷するための新しい書体を導入した。ロシア語で「市民の書体」と呼ばれるもので、1708年に最初の本が組まれ、1710年に皇帝自身が字母表を承認して完成した。
行われたのは、おおむね次のことである。
- 字の形を、当時の西欧の活字に似た、丸みのある直線的なものに作り替えた
- 43字あった字母を38字に減らした
- й を除いて、字の上に付く補助記号を廃止した
- 従来の半ウンシャル体は、宗教書の印刷にだけ残した
宗教のための文字を、行政と技術のための文字に作り替えた、と言い換えられる。これは中央からはたらく効率化と標準化の圧力そのもので、しかもこの場合は、押し付けた側と押し付けられた側が同じ国家の中にある。今日のキリル文字の字形は、この改革の産物である。
現在の状況
キリル文字は、ロシア語だけの文字ではない。ウクライナ語、ブルガリア語、セルビア語、そして系統のまったく違う多くの言語がこの文字で書かれている。
ただし、キリル文字はどの言語にもそのまま合うわけではない。ロシア語に無い音を持つ言語では、字を作り足すことになる。ソ連の文字政策で扱うトゥヴァ語とチュクチ語がその例で、チュクチ語の Ԓ のように、ロシア語のキリル文字には存在しない字が使われている。
どの字が足されたかを見ると、その言語が誰の都合で書かれるようになったのかが分かる。