1600年、誰にも置き換えられなかった文字

Հ という文字を、見たことがあるだろうか。

見たことがなくても不思議はない。この文字はアルメニア文字の1字で、世界でただ1つの言語、アルメニア語のためだけに使われている。丸みを帯びた輪の下に、まっすぐな脚が2本伸びる形。ギリシア文字にも、キリル文字にも、ラテン文字にも似ていない。

似ていないのは偶然ではない。この文字は、既存のどの文字を書き換えたものでもなく、1人の人物が405年ごろに新しく作ったものだからだ。そして作られてから今日まで、1600年のあいだ、一度も別の文字に置き換えられていない。

405年、なぜ新しい文字が要ったか

文字を作ったのは、Մեսրոպ Մաշտոց という人物である。日本語ではメスロプ・マシュトツ(Mesrop Mashtotsʻ)と表記される。

当時のアルメニアは、すでに国としての形を失いかけていた。387年ごろ、東ローマ帝国とペルシア(ササン朝)がアルメニアの領土を東西に分け合い、428年には東側の王権そのものが廃止されて、ペルシアが派遣する総督(マルズパン)が治める時代に入る。マシュトツが文字を作ったのは、ちょうどこの、国の輪郭が消えていく時期にあたる。

目的は聖書の翻訳だった。当時のアルメニアにはすでにキリスト教が広まっていたが、礼拝はギリシア語やシリア語で行われ、アルメニア語を書く文字が無かった。マシュトツは、まず当時アルメニアの王ヴラムシャプーに伝わっていた「ダニエル文字」を試している。エデッサの主教ダニエルが持っていたとされる、より古い文字である。しかしこれではアルメニア語の音を書き分けるには足りないと判断した。そこでシリアのエデッサに渡り、ギリシア語の書家ルフィノスの助けも借りながら、教会のトップであったカトリコス、サハクの支持のもとで、新しい文字体系を作り上げた。36字から始まり、のちに2字が加わって、現在は38字になっている。

目的が翻訳だったという点は重要だ。文字ができてすぐ、聖書やギリシア語の神学書のアルメニア語訳が大量に作られ、これが現在まで残るアルメニア語の最古の文献群になっている。文字は権威の道具としてではなく、読むための道具として生まれた。

国を失っても、文字は残った

ここからが、この文字の物語の核心にあたる。

文字が生まれた直後から、アルメニアの土地の主人は何度も入れ替わった。ペルシア、東ローマ、後にはアラブ、セルジューク、モンゴル、オスマン帝国、ロシア帝国、ソ連。支配者は世紀ごとに変わり、それぞれが自分たちの言語と文字を持ち込んだ。ギリシア文字、アラビア文字、そして20世紀にはロシア語のキリル文字。行政の言語として、これらの文字のどれかに書き換えられてもおかしくない機会は、1600年のあいだに何度もあった。

それでも、アルメニア語の文字は最後までアルメニア文字のままだった。ソ連時代のアルメニアはキリル文字圏に囲まれていたが、公用語としての表記自体はアルメニア文字のまま維持された。同じ帝国の中なら同じ文字のほうが行政も教育も統一しやすい。中央からはたらくこの効率化の圧力に対して、アルメニア文字は最後まで置き換えられなかった数少ない例になる。

理由の1つは、この文字が国家の道具である以前に、教会と文献の道具だったことにある。聖書の翻訳という始まり方をした文字は、王朝が交代しても、その王朝の公用文字にされる必要がなかった。読み書きの共同体が、国家より長く生き延びた。

字形の話

アルメニア文字はギリシア文字の影響を強く受けている。文字の並び順がギリシア文字とほぼ対応しており、母音を独立した文字で書く点、そして左から右に書く方向も、ギリシア文字から受け継いだと考えられている。一方で、1字ずつの形はギリシア文字にほとんど似ていない。丸みを帯びた線と、上下に短く飛び出す縦画の組み合わせで、遠くから見ても他のどの文字とも見分けがつく。

大文字と小文字の区別があるのも特徴の1つで、これも周辺の文字体系との接触の中で育ったものである。

現在の状況

アルメニア文字は、今もアルメニア共和国の公用文字であり、世界各地のアルメニア語話者のコミュニティで使われ続けている。Unicode にも収録されており、この記事の中の Հ の字も、特別な画像ではなく通常の文字として表示されている。

405年に作られてから今日まで、文字の骨格はほとんど変わっていない。増えたのは2字だけである。1つの文字が、これほど長く、これほど姿を変えずに使われ続けている例は多くない。

この文字で書かれる言語の学習アプリ