同じ『ボリス・ゴドゥノフ』の録音を2つ聴き比べると、場面の数が違うことがある。ボリスの死で幕が下りる録音もあれば、ボリスが死んだあと、森の中で民衆が蜂起する場面で終わる録音もある。
どちらかが間違っているわけではない。このオペラには、作曲者が自分で仕上げた形が少なくとも2つあり、そのあとに別の作曲家が手を入れた形がいくつもある。ここでは、それがどう生まれたのかをたどる。題材になった実在のツァーリについては、ボリス・ゴドゥノフの記事で書いた。
この記事でも、19世紀のロシアの日付は当時の暦(ユリウス暦)で書く。今の暦に直すには12日を足す。
原作はプーシキンの戯曲
オペラの原作は、アレクサンドル・プーシキン(Александр Пушкин)の戯曲『ボリス・ゴドゥノフ』である。プーシキンは1824年の暮れ、流刑先だった一家の領地ミハイロフスコエでこれを書きはじめ、1825年11月7日に書き上げた。書き上げたことを友人に知らせた手紙には、1人で声に出して読み返し、手を叩いて、さすがプーシキン、と叫んだと書いている。
この戯曲には、書き上げた年、本になった年、舞台にかかった年という、3つの別々の年がある。本になったのは1830年の暮れで、扉には翌1831年と刷られた。舞台での上演は長く許されず、禁止が解けたのは1866年、実際に初めて上演されたのは1870年である。
終わり方にも、手稿と刊本とで違いがある。ボリスの一族が殺されたあと、新しいツァーリを迎える場面で、プーシキンの手稿では、民衆が「ツァーリ・ドミトリー・イヴァノヴィチ万歳」と叫んで幕となる。ところが本になったときには、民衆は黙っている(Народ безмолвствует)というト書きに替わっていた。この書き換えをプーシキン自身がしたのか、検閲や皇帝の求めによるのかは、研究者のあいだで見方が分かれている。
ムソルグスキーの最初の形(1869年稿)
作曲家モデスト・ムソルグスキー(Модест Мусоргский)がこの戯曲をオペラにしたのは、1868年から翌年にかけてである。題材を勧めたのは、プーシキンの研究者で歴史家のウラジーミル・ニコリスキーだった。1868年10月に書きはじめ、1869年の暮れには最初の形を書き上げている。台本も、ムソルグスキーが自分で書いた。
この最初の形は、4部7場からなる。
- モスクワの新処女修道院の前で、民衆がボリスに帝位につくよう願う
- クレムリンでの戴冠
- チュドフ修道院の僧房で、老修道士ピーメンが年代記を書き、若い修道士グリゴリーがそのそばにいる
- リトアニアとの国境近くの居酒屋
- クレムリンのツァーリの居室(テレム)
- 聖ワシリイ大聖堂の前の広場
- ボリスの死
2つ目の戴冠の場で、民衆は「スラヴァ」(Слава、栄光あれ)と歌う。この合唱の旋律は、1790年に初めて出版された、ニコライ・リヴォフとイヴァン・プラーチによるロシア民謡集に収められたものである。ベートーヴェンも同じ旋律を、ロシアの伯爵ラズモフスキーに献じた弦楽四重奏曲の1つ(作品59の2)で使っている。
5つ目のテレムの場の終わりで、ボリスはシュイスキー公から皇子の死の様子を聞かされ、部屋の隅に殺された子の幻を見る。時計が時を打つなかで起きるので、時計の場面と呼ばれる。
戯曲にはポーランドを舞台にした場面もあるが、この形には入っていない。物語は、ボリスが帝位につき、罪の意識に追い詰められて死ぬまでを描いて終わる。
劇場に断られる
1871年2月10日、帝室劇場の委員会は、この作品の上演を退けた。
理由は、公式には示されなかったとされる。委員の1人だった指揮者エドゥアルド・ナプラヴニークの伝えるところでは、女性の役らしい役が無いことが理由だった。作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフも、のちに回想録の中で、委員たちは音楽の新しさに戸惑い、とりわけ重要な女性の役が無いことを咎めた、と書いている。
書き直された形(1872年稿)
ムソルグスキーは1871年から翌年にかけて、作品を大きく書き直した。
加わったのは3つの場である。2つはポーランドを舞台にした場で、ポーランドの貴族の娘マリーナ・ムニシェクと、イエズス会の修道士ランゴーニが新たに登場する。僧房にいた若い修道士グリゴリーは、このときにはドミトリーを名乗ってポーランドにいる。もう1つは、ロシア南部のクロームイに近い森で、民衆が蜂起する場である。
消えたのは、聖ワシリイ大聖堂の前の場である。そこにあったユロージヴィ(юродивый)の場面は、新しいクロームイの森の場へ移された。ユロージヴィは聖愚者とも訳される。わざと愚か者のようにふるまい、権力者にも真実を突きつける者として、ロシアで敬われてきた人々である。ほかに、テレムの場も大きく書き直された。
こうして1872年稿は9場になり、最後はクロームイの森の場で終わる。幕切れは、民衆のために泣けと歌う、ユロージヴィの嘆きの歌である。
1869年稿が、ボリスという1人の人間の罪と死で終わっていたのに対し、1872年稿は、ボリスが死んだあとも続いていく民衆と国の混乱で終わる。書き直しの理由を「劇場に女性の役を求められたから」だけで説明することはできない。音楽学者のリチャード・タラスキンは、この書き直しは劇場の求めをはるかに超えるものだったと論じている。
初演
書き直した形のうち3つの場が、1873年2月にマリインスキー劇場で先に上演された。居酒屋の場と、ポーランドの2つの場である。
全曲の初演は1874年1月27日、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行われた。指揮はナプラヴニーク、ボリスを歌ったのはイヴァン・メリニコフである。ただし上演にはカットが多く、ピーメンとグリゴリーの僧房の場は、まるごと演じられなかった。
同じ1874年には、ピアノ伴奏で歌える楽譜(ヴォーカルスコア)がペテルブルクのベッセル社から出版されている。この楽譜の題は、1918年より前のロシア語の綴りで刷られている。
別の作曲家の手が入る
ムソルグスキーは1881年に亡くなった。このオペラが広く上演されるようになるのは、その後、友人の作曲家リムスキー=コルサコフ(Николай Римский-Корсаков)が手を入れた形によってである。
リムスキー=コルサコフは、ムソルグスキーの音楽の大胆さと独創性を認めながらも、和声が粗く、職業作曲家の仕事になっていないと見て書き直したとされる。1896年にオーケストラの響きを大幅に書き改めた版を作り、1908年にさらに手を入れた。1908年5月のパリでの公演では、バス歌手のフョードル・シャリアピンがボリスを歌っている。
リムスキー=コルサコフの形は、その後長いあいだ、このオペラの上演の中心であり続けた。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場は半世紀以上このオペラを上演してきたが、ムソルグスキーが書いたものに近い形で上演したのは、1974年が初めてだった。
作曲者の楽譜に戻る
作曲者の楽譜を、リムスキー=コルサコフの手を経ない形で校訂して出版したのは、音楽学者のパーヴェル・ラム(Павел Ламм)である。1928年のことで、同じ年、レニングラードの劇場がこの楽譜で上演した。
その後も、ドミトリー・ショスタコーヴィチが1939年にオーケストラの響きを新たに書き直すなど、手を入れる試みは続いた。1869年稿と1872年稿のどちらを使うのか、あるいは2つを組み合わせるのかという選択は、上演や録音のたびに今も行われている。2020年には、ロシアの研究所が作曲者の楽譜の学術的な全集を刊行しはじめ、ムソルグスキー自身の手になる形を、1868年から1874年にかけての8つの版に分けて整理した。
アバドの録音は、どの形か
クラウディオ・アバドがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したこのオペラは、1993年、ベルリンのフィルハーモニーでの演奏会とあわせて録音され、翌1994年にソニーから発売された。ボリスを歌ったのはアナトリー・コチェルガ、ピーメンはサミュエル・レイミー、グリゴリーはセルゲイ・ラリン、マリーナはマルヤーナ・リポヴシェクである。
この録音は、オーケストラの響きをリムスキー=コルサコフではなくムソルグスキー自身のものに拠り、1872年稿を土台にしている。そこに、1872年稿では消えた聖ワシリイ大聖堂の前の場を1869年稿から加え、僧房の場も1869年稿の形で収めている。2つの稿を組み合わせた形であり、結末は1872年稿と同じく、クロームイの森の場である。
ボリスの死で終わるか、クロームイの森で終わるか。この選び方ひとつで、同じオペラの幕切れに聞こえる声が変わる。アバドの録音が選んだのは、森のほうである。